霞ケ浦の自然環境が帆引き船誕生につながった。
霞ケ浦は関東平野の北に位置し、日本で二番目に広い湖です。広さはおよそ220キロ平方メートル、水深の平均はおよそ4メートルです。深いところでもわずか6メートルしかありません。
霞ケ浦は縄文時代の終わり頃に海が後退してできた湖なのです。このことから、霞ケ浦が平らで浅いお盆のような湖ということがわかります。
広さに加え、「平で浅い」ということが、帆引き船の漁にとてもマッチしているのです。
じつは「広く平らで浅い」だけではありません。たとえば、
1.山のない平野にあること。
2.広い平野部から栄養分が流れ込み植物プランクトンがたくさん発生すること。
3.風の向きが安定していること。
4.シラウオ、ワカサギが育つのに適した環境であること。
などです。
帆引き船は、霞ケ浦特有のさまざまな自然環境が複合的に重なり合って誕生しました。
そして、霞ケ浦の自然と上手に付き合いながら、およそ100年もの間、持続可能な漁業を行ってきたのです。 霞ケ浦と帆引き船が表裏一体の関係にあったと言われる理由なのです。
報告書の中で、霞ケ浦の環境に詳しい沼澤篤先生は「帆引き船による帆引き網漁は奇跡の漁法である。」と書かれています。
補足
日本で一番広い琵琶湖の面積は、およそ670キロ平方メートル、一番深い水深がおよそ104メートルです。ちなみに日本で一番深い湖は、秋田県にある田沢湖で423.4メートルあります。
①霞ケ浦は海のように広い湖なので帆引き船は長い距離を流すことができた。
②風が安定していたため危険の少ない漁ができた。
③プランクトンが適度にいる豊かな湖だったので魚もたくさん棲息していた。
④湖底が産卵に適した砂地だったため毎年の漁獲量が安定していた。
植物プランクトンはワムシやミジンコなどの動物プランクトンに食べられます。動物プランクトンはシラウオやワカサギの餌(えさ)として食べられます。そしてシラウオやワカサギは成長して私たちの大切な食べ物となるのです。この「食べる食べられる」の関係を食物連鎖といいます。
昔の霞ケ浦はこの生態系がとてもうまく作用していました。帆引き船はこのような豊かな湖でその能力を存分に発揮し、たくさんの魚を捕まえていたのです。
霞ヶ浦の移り変わり
では、霞ケ浦はなぜ広くて浅い湖なのでしょうか。
その一番の原因が、縄文海進(じょうもんかいしん)によって海から運ばれてきた砂が底に積ることで、浅く平らになったと考えられています。
その後、利根川東遷や浅間山の大噴火により鬼怒川、小貝川、利根川から運ばれた砂や土が霞ケ浦に流れこんだため、さらに堆積が進んだのです。 現在は水門ができたため汽水湖(きすいこ)から完全に淡水湖(たんすいこ)に変わっています。
補足
今からおよそ7千年前の縄文時代前期は海面が現在より2~3メートル高く、海が陸地まで入り込んでいました。これを縄文海進といいます。当時、霞ケ浦は遠浅の海(入り江)でした。
現在の霞ケ浦
霞ケ浦の還流
報告書P43より(元図:茨城大学農学部霞ケ浦研究会編)
汽水湖から淡水湖に変わっても、広い霞ケ浦では風や温度などの影響で湖の水が常に動いています。
帆引き船は、その流れにのって泳ぐシラウオやワカサギを捕えてきたのです。
補足
江戸時代に行われた大規模な河道(川の流れ)を変える工事で、当時江戸湾(東京湾)に流れこんでいた利根川を東側に向きを変えて千葉県銚子の太平洋に注ぐようにしました。
主に江戸の町を水害から守る目的と鬼怒川、小貝川、利根川などを整備して舟運(しゅううん)を発達させ、関東や東北から江戸への物資輸送を円滑にする目的がありました。
その結果、河川(かせん)流域の町や村は大きな発展をとげたのです。
鬼怒川舟運の拠点であった水海道(現常総市)は「鬼怒川の水尽きるともその富はつくることなし」とまで言われたのです。
利根川東遷前
利根川東遷後
霞ケ浦2024年8月現在の状況
アオコで緑色に変色した沖宿漁港(土浦市)
手前の船は帆引き船(撮影日2024.8.8)
霞ケ浦に大量のアオコが発生しているとの情報を聞いて、土浦市帆曳船保存会長の古仁所登さんに連絡をしてみました。
古仁所さんは土浦市沖宿でレンコン栽培と共に漁師もしている方です。
次の日に、撮影に行きました。
文責 岩崎真也
この章は霞ケ浦の環境がご専門で今回の調査で専門委員を務めた沼澤篤先生にご助言を頂きました。