必要は発明の母
皆さんは「必要は発明の母」という言葉を知っていますか?英語では「Necessity is the mother of invention. 」と言います。発明王のエジソンが好んで使った言葉だそうです。
帆引き船が誕生したのは、明治8年(1875)説、明治10年(1877)説、明治13年(1880)説、明治18(1885)年説と史料によってまちまちですが、発明されたのは明治時代の初め頃だったのは間違いないと思います。今からおよそ150年から160年前です。
「折本良平翁記念碑」拓本
(大塚博氏提供)
発明した人は、かすみがうら市の折本良平という人です。折本良平という名前を覚えておいて下さい。主役としてたびたび登場します。 では、明治の初めに帆引き船はなぜ必要とされ、どの様ないきさつで誕生したのでしょうか?
まず、その謎に迫っていきます。
『茨城県霞ヶ浦北浦漁業基本調査報告書 第1巻』より
今まで発見された帆引き船の写真の中で最も古いものです。手前の船は折本良平が発明した時に使用した「サッパ船」といわれる型の船です。後ろは船尾の形が立ち上がっていることから改良型の「ミヨシ船」と思われます。
たった一人で大きな帆の船を操り、漁をしているようすが分かりますね。
発明の背景
帆引き船は当初、シラウオ漁を目的に考案されたと言われています。
その後、柳澤徳太郎という人によって、ワカサギ漁にも使えるように改良されると、霞ケ浦漁業の主役として活躍するようになりました。
帆引き船の前は、主に大徳網(だいとくあみ)という大きな網が使われていました。この漁は大掛かりなため、当時は網元のような資本力を持つ人たちが仕切っていました。
網を引く人を「曳子(ひきこ)」といい、一人当たりの賃金は安いものでした。良平はその曳子の経験から、「一人で漁ができ、それも大徳網に負けないほどの魚を獲る方法はないだろうか」と考え、研究を始めたと伝えられています。これが帆引き船を発明するに至った直接の理由です。
補足
シラウオは成長しても10センチぐらいの小さな魚で、群れで霞ケ浦を移動します。本来は汽水域に棲息する魚ですが、水門により霞ケ浦が淡水湖に変わってもその環境に順応し、今も霞ケ浦の主要な魚として生き続けています。半透明なため、天敵の目から見えにくいのか昼間でも湖面を泳ぐ習性があります。
シラウオ
シラウオの天日干し風景
大徳網漁は江戸時代から行われていた漁法で、海の地引き網を基に作られたと言われています。大徳網は7月末から12月末まではワカサギとシラウオ、1月から3月まではコイとフナを捕まえるのに使用されました。このように大徳網は、いろいろな魚を捕えることができる万能網だったのです。実はこの大徳網も霞ケ浦で生まれた漁法だと言われています。
大徳網には船大徳(舟引大徳網)と岡大徳(地引大徳網)という2種類の漁法がありました。
船大徳は、通常3隻(せき)の船で行い、8人から12人の人員が必要でした。時には、7隻で行ったという記録もあります。岡大徳は船で広げた網を岸から引き寄せるというものでさらに人員が必要でした。 大徳網は一度にたくさんの魚を捕まえる事ができましたが、多くの船や人手が必要だったのです。
大徳網漁
網元とは、網や漁船を所有し漁師や漁夫を雇って漁を行う漁業経営者を言います。
土浦の網元の中には、不漁の時に自分の土地を売って漁師たちの生活を守った人もいたとのことです。
折本良平の伝承
折本良平は江戸時代の天保5年(1834)に坂村、現在のかすみがうら市坂に生まれました。良平については、元かすみがうら市の職員で帆引き船研究者の飯塚良哉さんが、昭和54年~60年(1975~1985)にかけて、子孫に聞き取り調査をしています。その内容を『茨城県の昭和史-近代100年の記録(毎日新聞社1984)』という本の中で書いているので、その文章を一部お借りして紹介します。
「良平は、少年時代より釣りと発明に明け暮れ、(大人になってからも)近所の子供たちに遊び道具を作ってあげたり、歯車を組み合わせて何か作りだそうと夢中になっていたりしていた。実際、養蚕(ようさん)の道具である蔟(まぶし)や農具を改良したことなどが伝えられている。これまで無いものを発明したり、人に役に立つものや便利なものを作り出したりするのが好きだった。」
「良平の家は屋号を「藍屋(あいや)」といい、もともと藍染めを家業としていた。」
屋敷も広く、ちょっとした資産家だったようです。それでなければ発明に夢中なれる余裕はなかったでしょう。妻を迎え家督を継いでから、良平は時折、大徳網の曳き子などをして収入を得ていたといます。前にもお話したように、この曳き子の経験が後に帆引き網漁、いわゆる帆引き船という大発明につながっていくのです。
補足
・家が資産家だったため、あくせく働く必要がなかった。
・釣りが好きだった。
・少年時代から何かを生みだしたり、何かを発明したりするのが好きだった。
・目的があるとそのことに没頭して取り組んだ。
・漁師ではなかった。
蚕と繭玉
絹糸の原料となる繭(まゆ)を取るため蚕(かいこ)を育てることをいいます。
昭和30年代頃まで、農家の貴重な現金収入となっていました。
藍染とは藍の葉を醗酵させて作った「すくも」を原料にして、糸や布を紺色に染める日本の伝統的な染色法をいいます。日本では、庶民の衣服や農民の作業着などになくてならない染料だったため、藍染めを仕事とする職人がたくさんいました。
帆引き船の起源
では、折本良平はいかにして帆引き船を思い付いたのでしょうか。
何かヒントになるものがあったはずです。大正2年(1913)に出版された『茨城県霞ヶ浦北浦漁業基本調査報告書 第2巻』に、帆引き船に良く似た船が写っています。帆引き船と同じように帆を使い、船を横向きにして漁をしています。
帆引き船をあまり知らない人が見たら、この船は帆引き船だと思うでしょう。写真の説明には「たんかい万鍬(まんぐわ)」とあります。
これは、タンカイ(カラス貝)を獲る船で、時には小さな帆を付けて万鍬を引くことがありました。タンカイだけでなく、イサザ、ゴロなどを引く時にも、適風(てきふう)がある時に限って小さな帆が使われていたことが分かっています。
帆の大きさが、帆引き船に比べかなり小さいのが分かりますね?
「なぜ小さい帆なのか」を考えてみて下さい。その答えが「なぜ帆引き船の帆が大きいのか」につながっています。この比較は、帆引き船のメカニズムを知る上でとても重要です。
霞ケ浦の漁師さんの中には小さな帆を「ヤホ」、小さな帆を付けた船や漁を「帆乗り」と呼んでいた人もいました。この漁は、霞ケ浦では昭和30年代ごろまで行われていました。
では、この漁法はいつ頃からあったのでしょう。
明治18年(1885)に発行された『茨城県勧業日誌(いばらきけんかんぎょうにっし)第42号』、「霞ヶ浦水産調査一班」のイサザ漁のところに、「網を引くのは白魚(しらうお)漁と同じ。風がない時には手綱をのばし、たぐり寄せて網を引く」といった内容が書かれています。このことから明治18年頃はすでにあったということがわかります。帆引き船が活躍を始めたのと同じころです。
筆者は、写真のタンカイ獲りのような船が帆引き船のルーツではないかと考えていますが、現段階では、帆引き船の登場以前にこのような船あったという文字史料は発見されていません。ですから、確実に帆引き船のルーツであったとは言い切れないのも事実です。
補足
船を横向きにして網を引くことを霞ケ浦では「横引き」といいます。
マンガともいいます。湖底を引く鉄製の漁具で図のような使い方をします。
タンカイはカラス貝のことで、霞ケ浦産のものは、食用だけでなく衣服のボタン用として大きな需要がありました。霞ケ浦のタンカイは、水質の悪化などが原因で消滅してしまいました。
ゴロは霞ケ浦で獲れるハゼの仲間を総称して呼んでいる言葉です。かつてはゴロを専門に扱う加工場もあり、高値で取引されていました。
明治時代に書かれた霞ケ浦漁業の公式な報告書。帆引き船が初めて紹介されている史料です。内容は、当時の漁業を仕切っていた人への聞き取りが中心となっています。
この本は、明治13年(1880)に茨城県から刊行された県内の主な漁とその売上高を示した報告書です。33の漁の内、霞ケ浦からは7つが取り上げられていますが、残念ながら帆を使った船は出てきません。
打瀬船(うたせぶね)
ここで、帆引き船から一旦はなれ、「打瀬船(うたせぶね)」という漁船についてお話をしましょう。
帆引き船
補足
打瀬網漁(うたせあみりょう)は江戸時代の中頃に、大阪湾や若狭湾で始められ、その後日本各地に広まったと言われています。
江戸湾(東京湾)では江戸時代の終わりころに始められたという記録が『東京府管内水産図説(1890)』という本に載っています。
つり縄はなぜ生まれたか
では、折本良平はどのような理由で「つり縄」を取り付けたのでしょうか。ここからが本題です。
まず
「シラウオを一人でたくさん捕まえるためにどうするか」
を考える必要があります。これが発明の目的だったことは最初にお話ししましたね。
それには、少なくとも次の二つの条件をクリアする必要があったと考えられます。
1.スピードが出せる…シラウオは湖水の流れに乗って移動するためその群れに追いつき追い越せる速さが必要だった。
2.大きな網(あみ)が引ける…たくさんのシラウオを一度に捕まえるには、大きな網を引っ張れるだけの力が必要だった。
この二つをクリアするためには帆を大きくして船の馬力を上げなければなりません。
しかし、帆を大きくすると風の力に負けて帆や帆桁が折れたり、船が転覆したりする危険があったのです。
この相反する矛盾(むじゅん)を一気に解決したのが「つり縄」でした。
簡単に言えば、帆桁(ほけた)と網(あみ)の間に「つり縄」を張って、強い風で帆が前に倒れそうになっても、後の網に引っ張られて船が転覆しないようにしたのです。このつり縄こそ、折本良平最大の発明といえるのです。
補足
霞ケ浦は、風向き、水の温度差、地球の自転などによって常に湖水が動いています。特に水門ができる前は、潮の満ち引きでたくさんの海水が流れ込み、潮の流れも今よりはるかに活発でした。
「帆引き船」と「帆乗り」の大きな違い
帆乗りには、つり縄がなかった、というお話しをしましたが、付ける必要が無かったと言った方が正解かも知れません。
この漁を経験した漁師さんが「網をできるだけゆっくり引くのがコツ。早く引くと網が浮いて獲物がうまく入らない。」とおしゃっていました。
この船の獲物は湖底に棲息(せいそく)するタンカイ、イサザアミ、ゴロのような生き物です。湖底をできるだけゆっくり引くことが、この漁のもっとも大切なことだったのです。そのため小さな帆を補助的に使って網を引いたのです。帆が小さいのは、船をゆっくり進めるためだったのです。
千葉県浦安市の打瀬船も網をゆっくり引いて海底の車エビ、ヒラメ、キンポなどの獲物を捕まえました。そもそも浦安の打瀬船や霞ケ浦の帆乗りは、狙う獲物が帆引き船とはまったく違っていたのです!
補足
イサザアミはごく小さな甲殻類(こうかくるい)で、海のオキアミの中間です。霞ケ浦ではイサザとかジャジャとかいいます。網大工(網をつくる職人)さんは、イサザ網は網の目を細かくしなければならないため作るのがとても難しい、と言っています。
実際に帆引き船を経験した最後の世代の漁師さんです。帆引き船の伝承活動にも貢献されていました。かすみがうら市の歴史博物館の帆引き船模型づくりにも助言をされた人です。「帆乗り」という呼び名もこの方から教えて頂きました。
身近な道具(船・網)を利用
船・・・折本良平は帆引き船を発明した当初、その母体に「サッパ船」という小舟を使いました。
サッパ船は、漁だけでなく、荷物を運んだり、農作業に使用したりするなど日常の生活を支える身近な船でした。また、洪水の時に避難(ひなん)する船として湖岸に住む多くの人が所有していました。良平は、簡単に手に入るサッパ船を使用したのです。このことが、後に霞ケ浦沿岸に帆引き船が瞬く間に広まった理由の一つと考えられます。
網・・・網は霞ケ浦の大徳網を小さくしたものが使われたと言われています。 このように帆引き船に使われた船体や網は、当時あった身近な道具を改良して使ったのです。
折本良平の功績
折本良平翁記念碑
霞ケ浦を見下ろす歩崎公園の一角に折本良平の功績を讃える記念碑が建っています。明治45年(1912)に霞ケ浦周辺の漁業関係者によって建てられました。
折本良平の大きな功績は二つあります。一つは、もちろん帆引き船を発明したこと。そしてもう一つは、その漁法を広めたことです。広めたことで霞ケ浦沿岸に住む多くの人の生活が豊かになったのです。だからこそ、碑を建てその功績に感謝したのです。
一説には、霞ケ浦沿岸の村々を訪ね歩き、講習会などを開いて帆引き船の技術を伝え歩いたといいます。
良平は個人の利益よりも地域の利益を優先させました。
帆引き船を後世に伝えるということはその技術だけでなく、この船と共に生きてきた先人たちの、勇気、知恵そして志(こころざし)を共に伝えることが大切なのだと思います。
補足
当初良平の家に建てられていましたが、昭和30年(1955)代に歩崎公園に移されました。平成23年(2011)の東日本大震災で倒壊しましたが修復した時に、公園内のより湖に近い方に移されました。
文責 岩崎真也