八郎潟(はちろうがた)を知っていますか?

八郎潟の打瀬船
男鹿市提供、樋口政治郎撮影

みなさんは、八郎潟を知っていますか?

かつて秋田県にあった湖で、干拓される前は霞ケ浦を抜いて日本で二番目に広い湖でした。
この八郎潟へ明治35(1902)年ごろに帆引き船が伝えられていたのです。伝えた人は、かすみがうら市田伏出身の坂本金吉です。

しかし、八郎潟へ最初に出かけたのは、金吉の父、吉蔵こと坂部五右衛門という人でした。 なぜ帆引き船が八郎潟へ伝えられたのかは、まず、この人の冒険談からお話しする必要があります。

補足

伝播を伝える史料

佐賀郷土史(1913)

当時佐賀尋常小学校の校長であった山口貞次郎という人が地元の人たちから聞いたさまざまの話をまとめた本。その中に、吉蔵老人が新天地を求め八郎潟へ出向いたこと、息子の金吉が帆引き船を伝えたことなどが書かれています。

坂本照明伝聞資料(1999)

1999年の映像製作の時に、金吉孫の坂本照明さんから送っていただいた伝聞資料。明治35年に家族で秋田県八竜町芦崎に移住したこと、帆引き船を伝えた経緯などが記されています。

八竜町史(1968) 霞ケ浦の人坂本金吉が芦崎の門間家に寄宿し、エビ筒、打瀬網、ウナギのはえ縄などを伝えた。打瀬船はこの時から始まった、と記されています。

吉蔵老人八郎潟へ征く。

明治22年、坂部五右衛門(坂部吉蔵)は長男に家督(かとく)をゆずります。56歳の時でした。そのころから、てんびんを担いで宇都宮などへ出向き、霞ケ浦の佃煮などを売り始めたようです。そのような時、出羽(でわ・秋田県の古い呼び方)の八郎潟に魚や蝦(えび)が多いことを知り、一人視察に出向いたのです。歳の頃64、5歳のころと伝えられています。

吉蔵はまず、東北本線で青森の碇ヶ関駅まで汽車で行き、羽州街道の難所、矢立峠を越え八郎潟を目指したのです。

JR東日本 奥羽本線碇ヶ関駅(撮影:岩崎真也)

JR東日本 奥羽本線碇ヶ関駅(撮影:岩崎真也)

矢立峠は、かのイザベラ・バードが、悪天候の中を命がけで超えた峠として知られているところです。

吉蔵は八郎潟に持って行った数本のエビダルで試験的に漁を行い、大成功をおさめるのです。

そして次の年からエビダルを使い本格的に漁業を始めるのです。また佐賀郷土史には「この老人のお陰で新しい漁法をはじめ製産高が非常に上がったので『開拓の功労者』として(八郎潟周辺の)村人が相謀り(相談して)碑を立てその功業を記録にとどめたとも記されています。実はこの碑は残念ながら確認されていません。 それにしてもこの老人の知恵、勇気、行動力には驚くばかりです。この精神は子の金吉に、さらに孫の寛(ゆたか)へと受け継がれてゆくのです。

補足

鉄道の活躍

地図・岩崎真也 調べ

明治時代に日本の鉄道は大きな発展を遂げました。それに伴い人や物の移動が船から汽車へと変わっていったのです。吉蔵老人が八郎潟へ行った年代を特定できたのも奥羽本線の開業年度を調べた結果でした。碇ヶ関駅の開通年度は明治28年(1895)10月。次の駅の大館駅が開通するのが4年後の明治32年11月。吉蔵はその4年間の間に八郎潟を訪れたのです。また、芦崎の最寄り駅となる森岳駅の開通年度が明治35年(1902)で、坂本照明伝聞資料に書かれた金吉一家の芦崎移住年度と一致します。

帆引き船の帆や網も汽車を利用して運ばれたに違いありません。鉄道が帆引き船伝播に大きな役割を果たしたのです。

イザベラ・バード(1831-1904)

イギリスの婦人で生涯の多くを旅と共に生きた人です。主な著書に『日本奥地紀行』『朝鮮奥地紀行』『中国奥地紀行』などがあります。『日本奥地紀行』は明治11年(1879)年5月からおよそ4か月かけて東北地方から北海道を旅した時の旅行記です。

坂本金吉帆引き船を伝える。

坂本金吉は、元治元年(1864)坂部五右衛門(坂部吉蔵)の三男として佐賀村田伏(たぶせ)に生まれました。後に志戸崎(しとざき)の坂本滝右衛門の長女はまと結婚し、坂本性となったのです。
坂本照明伝聞資料(1999)によれば、金吉は背も高く、頭脳明晰(ずのうめいせき)といわれ、20代には明治天皇の近衛騎兵も務めたとのことです。
明治35年、金吉は妻のはま、長男の寛(ゆたか)、長女の千代、を連れてふるさとの佐賀村を離れ、秋田県浜口村芦崎(あしざき)に移住します。それは金吉の実父坂部五右衛門の意志を受け継ぎ八郎潟での事業を成功させるためでした。八郎潟にかけた金吉のなみなみならぬ覚悟を感じますね。
金吉が芦崎沖合で試験操業を行ったのは移住してすぐの明治35、6年の可能性が高いと考えています。金吉は鉄道の開通に合わせ、事前に用意周到な計画と準備を行い、帆引き船の試験操業を成功させたのです。頭脳明晰と言われた金吉に、ぬかりはなかったはずです。実際の操業は、霞ヶ浦から金吉と共に出向いた実行部隊の漁師達が行ったのです。そして伊東倉吉を始め、芦崎の漁師達も労を惜しまず協力したに違いありません。
帆や網等の道具は、開通したばかりの能代駅(現東能代駅1901)か森岳駅(1902)まで鉄道で運び、船本体や帆柱、帆桁は現地で調達したと考えられます。その後、芦崎の漁師達が何年か掛けて帆や網の作り方を学び、帆引き船の操舵技術を習得したと考えられるのです。

坂本金吉(左)右は長男寛

金吉の長男寛(ゆたか)と長女の千代が学んだ旧芦崎尋常小学校(撮影:岩崎真也)

補足

伊東倉吉

伊東倉吉は旧姓を舟木倉吉といい、払戸村(旧若美町)の漁師でしたが、芦崎の伊東家へ婿養子に入り伊東家を継いだのです。金吉が当初、八郎潟で商売の足掛かりとしていた大久保村(旧昭和町)時代に倉吉と知り合い、兄弟のように親交を深めていったと推測されます。そして後に、倉吉の養子先である芦崎へ一家で移住する事を決意し実行したのです。伊藤倉吉は帆引き船伝播に重要な役割をはたした一人と言えるでしょう。

八郎潟の打瀬船(男鹿市提供) 撮影 樋口政治郎

坂本金吉の功績

金吉一家は移住当初、門間富吉のもとに寄宿していましたが、後に伊東倉吉から敷地内の土地を分けてもらい、そこに家を建て住んだと言われています(伊東家伝聞)。今も芦崎の伊東家には金吉の印の付いたエビダルや判取帳が伝えられています。坂本照明さんの伝聞資料には「打瀬網漁をはじめエビ筒、ウナギのハエ縄漁などの霞ヶ浦の漁法やワカサギの煮干しなどの水産物の加工の技術を指導したおかげで、芦崎、大谷地(おおやち)、追泊(おいどまり)の三地区の漁業が振興し、八郎潟が干拓されるまでその恩恵に浴した」と記されています。

伊東家に伝わる判取帳

伊東家に伝わる金吉印が入ったエビダル

補足

潟船(かたぶね)

打瀬船は八郎潟独自の「潟船(かたぶね)」を用いています。潟船は水深の浅い八郎潟に合うようにつくられた船で、底が平らで長方形の箱型をしています。まさに、八郎潟であらゆる用途に使われてきた万能船です。私はこの潟船の存在こそ、金吉が船引き船の導入を決意した鍵を握っていたのではないかと考えています。細長い船体は、大きな帆を取り付けるにも最適だったからです。そして何よりも現地調達が可能な船だったからです。

八郎潟独自の「潟船(かたぶね)」

観光打瀬船
第18回八郎湖ウォーターフェスティバルにて
平成16年(2004)

坂本家のその後

金吉の長男寛(ゆたか)は、二十歳のころ東京に出て、金吉の実弟坂部健次郎が営む浅野セメントの人夫請負業の会社(丸木組)に入り、神奈川県川崎の支店を任され、数年後には本店を凌ぐ勢いで活躍するようになります。

大正8年(1919)、金吉は息子のいる川崎に移住。寛は大正10年11月に、許嫁であった伊東倉吉の二女ヤヱと結婚します。そして金吉は昭和10年8月15日死去。

金吉の孫で長男寛(ゆたか)の六男九(ひさし)は、昭和30年代から40年代にかけて歌手・俳優として活躍します。当時国民的歌手として知られた坂本九(きゅう)です。皆さんは「上を向いて歩こう」をご存じですか? この世界的なヒット曲を歌った人です。

語り継がれる伝説の人々

ミュージカルポスター
(岩谷作一さん提供)

秋田県山本郡八竜町(現山本郡三種町)では、平成14年(2002)に町民の手による『八竜ミュージカル 打たせ舟物語~ブラックバスと坂本九~』を上演した。打瀬船を伝えた坂本金吉と村人の関わり、坂本九と地元の子供達との交流等を軸に、人と自然の共生とは何かを問いかけた作品である。
坂本九役はなんと伊東倉吉の直系の子孫にあたる伊東寛(ゆたか)さんであった。寛(ゆたか)という名前も読み方も坂本寛に因んでつけられたのだという。かようなまでに坂本金吉、寛、九との深い縁を彼の地の人々は誇りとし伝説の如く語り継いでいるのです。